何が行為か、何が無意か。

インドのヒンズーやヨーガの聖典中の聖典と言われるバガヴァッド・ギータを読んでいます。
ラーマーヤナの中に収められている詩篇です。
まさワークスは、今まで同様アプリオリな考えをかき分けながらですが、現代の科学全般や哲学や古典や聖典の中にある知者や賢者達の英知に触れ深淵を覗いて行こうと思います。
{71734D06-A9EA-4B2F-889A-898D37D4E079:01}

(カラフの情報は取り除いていますw)

さて、
目に見える文字や理論とは、ヨーガ(実践)とは違う。
理論のみ言葉の表面だけに依る者には見えない世界がある。
星の王子様も言っているw「大切だけれど目に見えないもの」とは何だろうか?
それは結果にはこだわらず、しかし諦めず淡々と例え自分1人でも、遥か遠くのゴールを見つめ自らの人生を全うしようとする姿勢そのものの中において見えてくる。
(引用開始)

行為の中に無為を見、無為の中に行為を見る人、彼は人間にうちの知者であり、専心して全ての行為をなす者である。

彼の企てが全て欲望と意図(願望)を離れ、彼の行為が知識の火により焼かれているなら、知者たちは彼を賢者と呼ぶ。
(引用終了)
(バガヴァッド・ギータ 第4章 18, 19)

古い革袋に新しいぶどう酒を入れてはいけない。

先ず古い革袋を捨てて新しい革袋を用意することだけが重要です。

そのために行っているのが「ゴール設定講座」であり、これの内容は自我関数の書き換え方の「目に見えない」ものをあぶり出すものです。

ゴール設定もまた、重要なことはあなたの脳と心の古いOS(オペレーションシステム)そのものやもっと抽象度の高い範囲を、あなた自身によって捨てて新たに書き換える為の講座です。

(引用開始)

・執着を離れ、[束縛から]解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為する人にとって、その行為は完全に解消する。(同上 23)


・知識の祭祀は財物よりなる祭祀よりなる祭祀よりも優れている。アルジュナよ。すべての行為は残らず知識において完結する。(33)

・それを[師への]服従により、質問により、奉仕により知れ。真理を見る知者たちは、あなたに知識を得教示するであろう。(34)

・それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。アルジュナよ。それによりあなたは万物残らず、自己のうちに、また私のうちに見るであろう。(35)

(引用終了)

師への服従という言葉が気になる方もいるでしょう、聖典の中の言葉です。

まさワークスなりに解釈すれば、どちらかと言えば徒然草のように先達とか少し先にあなたが知りたかったことを学んだ者という解釈で構わないと思っています。

勿論、相手(の宇宙)や、最低限の学びの場としての姿勢がなければ何も教えることはできません。

(まさワークスは保育園や義務教育ではないので。と言えば、今度は引き合いに出された園児や学童には失礼でしょうか?wまあ、この場で躾をすることや、その気もないので、ただ静かに卒業という形で肩を叩くだけということですw。)

(引用開始)

仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり

さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり

(引用終了) 徒然草 第52段 

最後のくだりの一言は現代でも有名です。

まさワークスもこのようにさらりと解けるようになれば良いのでしょうがw。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」は「何事にも教えてくれる人はいて欲しいものだ」と言う意味です。

あなたが知りたかったことが、まさワークスで知ることが出来るようになったと言う方が増えれば良いと願います。

また旅に出ようと思います。(最後は寅さんみたいですねw)

まさψ(`∇´)ψ

Follow me!