信じるものは救われるのでしょうか?
「信じる」という行為は一見美しいように思われていますが、「信じる」者にとっても「信じられる」者にとっても、かなり厄介さを含む概念です。
考えてみれば「信じる」って、自分に都合よすぎますよね。
「信じてたのに」って台詞を聞くと、「私にとって必ず都合の良い人だと思っていたのに、違ったのね (裏切ったのね) 。」と言っている様に聞こえます。
また、 「信じる」とは、 「盲信」を包摂しています。これは、騙されても最後まで騙され続けるということになりかねません。
もっと厄介ですね。
自分も相手も、取り巻く環境との関係性において毎瞬間毎に変化しているのです。
「信じる」ことを「信じる」人は、皮肉ですが 亡くなったマザーのように 「信」と「不信」を行ったり来たりするのです。
僕はマザーの偉業は勿論尊敬しているのですが、、、。
「私はあなた方一人ひとりを愛することはできませんが、あなた方一人ひとりの中にいるイエスを愛しています。」
マザーの有名な言葉です。
少々意地悪なわたしの解釈かもしれませんが、この言葉、「(まず)イエスひとりを愛していた」という風に聞こえます。
個人的には美しいと思います。本当に。
まさに「信じていた」のでしょう。
しかし、愛という関係性は余程抽象度をあげなければ、やはり「見返り」を期待するものです。
見返りを諦めたら「無償の愛」となるのでしょうか?
なので、僕は愛(とか信じる)という概念は、元々生命に備わったリプロダクションの機能のつじつま合わせの説明原理としてとらえて、ある意味で深堀の議論はスルーします。
特に愛について暑(?)く語る人(時)、その彼(彼女)は、愛の盲目状態にあると思うからです。水掛け論にしかならないからです。
別に否定もせずです。何故なら、僕も恋には何度も「落ちて」いますので、、、。
「信」と「不信」の抽象度よりひとつ上を選択することです。抽象度の階段は、常にひとつ上があるのです。
あえて「信じる」のならば、自分の可能性を信じることと、僕は「信じて」います。
答えの出ない恋愛論にすり代わってしまいました。
まさ^’^/