心と体の脱力。先週の遠隔気功、身体がゆるゆるに緩んで今週は体調良く過ごしています。

心と身体の脱力(リラックス)というテーマで遠隔ライブを行った時のフィードバックを頂きました。

(引用開始)

まさ様

おはようございます。◯◯です。
先週の遠隔、身体がゆるゆるに緩んで今週は体調良く過ごしています。

今更ながら「その先のゴール」を設定すること、ゴールをどんどん更新することの風景(自分の中ではコツに近い)が見えてきました。

日々の加速度を増してきて、更に稠密な時間になっています。
仕事も好調です。
時間や思考を使わなければならないものと、流してよいものを見ることの精度が増した気がしています。

光の玉ワークもしているお陰ですね。


余談ですが、昨日、高1の長男の三者面談がありました。

先生いわく「彼の進路がクラスで一番ビッグです。」とのこと。先生的には堅実な進路(教育大に進んで教師に、という道など)も考えて~というか、そこに着地したいな、という感じだった(じゃないと具体的に話が進まない)ので、合わせておきました^^;

自分の息子となると、また難しい部分がありますね。ただもう、彼の人生は彼のものなので、「幸あれ!」と思うばかりです。

(引用終了)

一つずつコメントを入れて行きます。

『身体がゆるゆるに緩んで今週は体調良く過ごしています。』

まずは、身体が緩むということは、心が緩んだという証拠ですね。

私たちは、緊張を強いられながら日々の仕事のみならず、生活全般を送っていることが少なくありません。

なので、本来ならば、緊張とリラックスの程よい切り替えは必要ですし、良い意味であれば違う種類にはなりますが緊張は必要と考えるのですが、、、。ずっと緊張状態だと良くありません。

同じ事がリラックスとか、脱力、緩むということにも言えます。リラックスしすぎも良くありません。

またここで言っておきたいのですが、「脱力する」又は、「リラックスする」とまさワークスで言う時、そして「ゆるゆるに緩む」と言う時には、単なる緊張と脱力という二項対立的な見方で受け取ると誤解が生じます。

極端に言えば、「力がぬけてだらだらする」とか「何も考えなくてもいいよ」とか、それこそスピリチュアルのように「あなたは、そのままでいいのよ」とかいう自堕落な感じの意味の「脱力」ではありません。

身体という面に焦点をあてれば、高度な身体の使い方とは、ムダな力を入れずに、身体意識のパラダイムをも上げて書き換えた上で行われるものです。

ムダな力を抜いてパフォーマンスを上げるのです。リラックスしているが集中している状態って例えば合気道の達人がすーっと自然体で立っているようなイメージです。

身体のサイドから語っても、説明は心(精神、もっと言えば情報空間)の領域にも浸潤します。というか、「心と体は抽象度をあげれば同じもの」というのが、まさワークスの解釈です。

このクライアントさんは、その事をしっかり理解した上で、ムダな情報、いわゆる心のゴミも片付けることができたので、身体からもムダな力、すなわち余計な緊張とかノイズと表現できるような力が抜けたと言っているのです。

『今更ながら「その先のゴール」を設定すること、ゴールをどんどん更新することの風景(自分の中ではコツに近い)が見えてきました。』

これは、まさワークスが数年来、スローガンのようにブログに書いてきた決まり文句と関係しています。

あの「遥か遠いあなた自身の遠い未来の理想の世界を見つめ続けましょう。」ですね。

これは、僕は暗記しているのではもちろんなく、毎回、改めて自分がブログを書きながら、投稿された方と現在と未来に亘って文章を読まれる(願わくば)数百、数万、数億人の読者全員との関係性の中で浮かび上がって無意識的に書いているフレーズなのです。(初めはモノマネだったのですが、、、)

なので、毎回少しずつ順番や形容詞や副詞などの文言が微妙に違いますよね。

単語、文章など言葉ひとつひとつにもちろん意味はあるのですが、しかし、その言葉の集まり全体の意味するところは、全体のコンテキストによって変化します。分りますか?

極端に言えば、同じ言葉(単語)を、同じ人が発したとしても、あるいはそれが単語ではなくて文だとしても、その言葉が発せられた関係性によって意味は正反対にすらなることがあるということです。

まあ、「あなた何て大嫌い!」という言葉は、「あなたが大好きです。」という意味に成りうるということと同じです。

さて、その上で、ひとつひとつの言葉は大事です。

かと言って、言霊(ことだま)という理解はしないのがまさワークスです。言霊というと言葉に魂や霊魂(同じか)が宿っているというあれです。

(まあ言葉には、或いは言葉じゃなくても情報を乗せる事も可能なのがまさワークスの気功なのでややこしいのですが、、、。ここではこのことは聞かなかったとしてスルーしてください)

霊はあの世の論理です。あの世は簡単に言えば単なる仮定のお話です。
あの釈迦もあの世は否定しています。より正確には、あの世があるのかと聞かれて、「無記」(何も記さない。何も語らない。)と答えています。

仏教は釈迦が亡くなって500年してから起こったもので、日本に来ている仏教は、まさに天国である浄土が初期設定されてしまっている「浄土教」と揶揄されるくらいです。

空の論理より先に天国があるー。から始まっています。「アプリオリ」な教えですね。

簡単に言えば「天国」と「地獄」があってという大ウソから入ってきた訳です。死後の物語を作って「地獄へ行きたくなければ、こうしなさい。」という恐怖で人々を操作するのです。あるいは、「こうすれば、天国へいけるよ」「信じるものは、救われるよ」という訳です。逆の物言いですが、落ちれば地獄だしこの世も苦しみばかりと解くので、同じ事です。

いずれにせよ、「霊や魂、神様」などの信仰や「エンジェル」さん等が「実在」していると本気で仮定しているスピリチュアルのお花畑の住人達とは、まさワークスは無縁です。

信じている方には、何も言うつもりもありませんし、それでお幸せならば、「あら、良かったですね」と思うだけです。まあ、そんな感想も実際にはありませんが。

それよりも、自分のいる現状の範囲の遥かに外側のゴールを設定することで、自分(自我関数)を書き換えることによって、それぞれのゴールを目指して行くというのがまさワークスのやり方なのです。

つまり、「あなたはそのままでいい」「あなたはあなたらしく」というのがスピリチュアルですが、まさワークスは「あなたは、あなた自身が成りたい自分になりなさい」「過去、周囲から押し付けられてきた価値観で洗脳された情動記憶の集積である自分自身があなたらしいという言葉を定義しているのなら、そんなあなたらしさ、自分らしさなど他者に思わせれてきた自分ではないのですか?」ということです。

そして、神などという思考停止を招く「ア・プリオリ」というアルゴリズムを捨てましょうと言い続けているのがまさワークスです。

自己責任から始めるのです。

だからこそ、ゴール設定は、毎日更新するのです。その様な気功技術というか、ワークもあるのですが、その度に、他者が作ったものさしから解放されるのです。

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『今更ながら「その先のゴール」を設定すること、ゴールをどんどん更新することの風景(自分の中ではコツに近い)が見えてきました。

日々の加速度を増してきて、更に稠密な時間になっています。
仕事も好調です。
時間や思考を使わなければならないものと、流してよいものを見ることの精度が増した気がしています。』

はい。

ゴールをつくることですら目的ではありません。(ゴールが目的ではないというのは大胆だと思いません?笑)

言って見れば取り敢えずの目的だったりします。自分自身がものさしを作って、自分に果たした「機能」に徹することが大切です。

自分の作った(或いは選んだ)ものさしとは価値基準です。自分の価値は自分で決めるのが原則です。しかし、だから現状に満足してそのままでよいというのは早計すぎます。

その自分とは未来の理想の自分です。(ここで、勿論自分の自身のゴールのない人や既に到達してしまっているようなゴールの場合には、あなた自身の「無意識」が「自分は変わらなくてよい」という判断をしてしまうのです。これが、「やる気が出ない」とか「やる気があるのに、進まない」と、いろいろとしなくても良い言い訳を自分や他人に漏らしている時の状態です。)

『時間や思考を使わなければならないものと、流してよいものを見ることの精度が増した気がしています。』

さすがです。これが、自分のものさしを常に吟味しながら、ゴールへ到達するために知識を日々吸収している方の感想だと思います。

『余談ですが、昨日、高1の長男の三者面談がありました。

先生いわく「彼の進路がクラスで一番ビッグです。」とのこと。先生的には堅実な進路(教育大に進んで教師に、という道など)も考えて~というか、そこに着地したいな、という感じだった(じゃないと具体的に話が進まない)ので、合わせておきました^^;

自分の息子となると、また難しい部分がありますね。ただもう、彼の人生は彼のものなので、「幸あれ!」と思うばかりです。』

『予定』ではなくて、ゴールとは現状の自分からは見えない、想定外のゴールです。自分で選択させるために、選択肢はたくさん見せて上げる事、そういう知識を得る機会を与えることですね。

そして、自己責任で自分の道を選ぶことも、自分の人生の「機能」「役割」を自分で決めることも、それが一番の幸せだと思います。

親は、難しいですね。やはり、 なにごとも簡単ではないと思います。

親のすることは、子供を1人の人格として見てあげることが第一だと思います。

しかし、それは「親は意見を言ってはいけない」ということとは、全く違うとも思います。

親がアプリオリに一つあるいは限定されたごく少数の道や職業のみを(暗にでも)サポートするというのは、良くないと思います。

その意味でドリームキラーというよりも、変なドリームサポーターになると子供は親の夢を生きる奴隷となってしまうのです。

選択肢を与え(つまり知識を得る機会)、子供にも自分自身がその時々に思うゴールを決めてそして更新させることです。(一度決めたゴールをアプリオリにしないようにです。)職業はゴールにはなりえません。手段です。世の中に対してどんな役割の自分であるかを決めるのに本当は職業は関係ありません。

総理大臣に成りたい。成る事がゴールにはならないのです。
総理大臣になりたいのは、どうしてなのか。
どんな機能や役割を果たしたいからなのかを考えるベキです。

そういう意味において、好きなこと、進みたいゴールをさせることです。
子供は、変に子供扱いしなければ(もちろん小学生には分る言葉で、分りやすい比喩をいれて説明はしてください)僕らが思っているレベルを遥かに超えて理解可能です。

そこまで理解をしたら、言葉尻などあまり臆病になりすぎず、もちろんそれぞれの判断でその時その時には言いたい事、言うべき事を言うべきであると思います。

(後で自分で考えて間違えだと思えば、悪びれず訂正して行けば良い事です。)

フィードバックありがとうございました。
息子さんの将来を眩しく観てあげてください。

もちろん、一流のサッカー選手には知性、抽象度が必要ですね。

まさ^^/

 

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