遠くを見よう。未来を見よう。

(引用終了)

まさ先生

先日遠隔をしたハーミーです。

12月30日
9時22分

人との出会いで人生は、ブログ記事読みました。

この数日、
私は去ろうと思っていました。

全技術を抜き、辞めます。とまさ先生にお伝えしようと…

以下、ご本人にお伝え頂けると嬉しいです。

この度は、
モニターへご参加頂きありがとうございます。

私も職業がコーチですから、コーチという仕事への迷いはそれなりに理解でき、
遠隔の際もこの方の(皆さんの)迷いがクリアになればと思っていたことを思い出しました。

遠隔前の○さんからのコメントから、もやもやした現状を脱して、もっと先のクリアな世界へ、という望みををメールからは感じました。

しかし、無意識のゴールがあればこその、ご本人の実力だと思います。

そして私には、まさ先生の存在がありました。

私は、この学びを始めてからまさ先生以外の方と直接(ある意味で直接)関わりを持つことがなく、○さんからの今回の感想はとても私自身が救われる想いです。

本当はモニターの皆さんお一人、お一人とゆっくり語り合いたい気持ちで一杯です。

いつか機会があればとても嬉しいです。

今、会って直接言葉でこの気持ちを伝えられないことは残念ですが、皆さんのこれからの未来を私も応援しています。

私も見えない未来に深い絶望を感じ身も心も粉々に…

また皆さんにお会い出来る日を楽しみに…

失礼します。

(引用終了)

はい。

僕のお話をします。
まあ、一般的なお話ということです。

セミナーでお手軽に
知識や何かの上面を得れば、
クリアですっきりとした
楽園が手に入ると
いう無邪気な幻想を持ちながら、
ほんの数日でも
勉強を始めたとたん
粉々に破壊されました。

セミナーを受けて
技術を大量に「購入」
(いやな言い方ですし、
間違った考えです。
そのように考えている人は
いないと思いますし
僕もそう思っていませんでしたが
敢えての表現です。)
すれば2ー3日は
万能感で満たされ
モチベーションで一杯になります。

しかし、それは長続きせず
寧ろ、一瞬後には
絶望の縁まで一気に落ちます。

僕の体験です。

結局、技術は便利ですが
それは本質ではないのです。

そのような体験が
やはり今の僕を
支えていると
思います。

知識もなく(無明とは良く言ったものです)
人間は何のために生きるのか
と考えるとド壺にはまります。

抽象度の低い質問とは
そういうものです。

回答はそれぞれが出すものです。

それが大前提で言えば
僕の答えは
「生きるために生きている」
を採用します。

トートロジーの極みに
見えるでしょうが

短くても長生きでも
やはり僕らの生は一瞬です。

絶望からスタートしても
他者を生かすことを
考えることでしか
自分は生きることが出来ないと
僕は思い知らされています。

その思いでならば

自ら命を捨てて
世に捧げることでこそ

自分を生かすことが
出来ると思います。

それが永遠に生きること
唯一の方法です。

全て、僕の思うところです。

それならばこそ
小乗を極めてよいと思います。

世界を揺らがせましょう。

一歩一歩でしかないのです。

「中途半端な絶望と
中途半端な希望ほど
邪魔なものはない」

僕は自分の先生から
この言葉を聞いてから

絶望したなんて
いつも言っていたけども
僕のは違ったんだなと
思いました。

(小学生の時は、ちょっと泣きわめいたら、意味も分からずに「○○くん、発狂した!w」などと言っていました。)

「絶望と希望は同じもの」
そして、ここ言葉が響くいてきたのです。

楽観的なのか悲観的なのか
そういう問題ではありません。

自灯明自帰依で
自分が世を照らす人となること。

僕は、自分に対して
そう感じています。

もっと遠くを見なさい。
アランの幸福論の言葉です。

含蓄のある言葉です。

自我という幻想に
絡みとられていると
前に進めないのです。

まさ^’^/

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