言葉に意味はないとはどういうことでしょうか?言霊ってなんなの?

言葉に意味はなくて、言葉の意味は、使われたそのシチュエーションの中にある。
「愛してる」に意味はなくて、その意味は、使われたそのシチュエーションの中にある。
「バカ」という言葉には意味はなくて、その意味は、使われたそのシチュエーションの中にある。
単語も文章も同じである。ある時は、まさにその辞書的な意味を意味するだろうし、ある時は「バカ」は「愛している」を意味する。
ここで、吉高さんに登場願う。有名な「好きだバカ」(いや、これは言っちゃってますよね。)

閑話休題(横道にそれたつもりはないのですが、、、まあ、「次だバカ」です。)
もちろん、シチュエーションとは人と人との間にある関係性なのだが、、、
もう一つは、その言葉とあなたの関係性である。
言葉そのものとあなたとの関係性である。
言葉だけではなくて、全てのものごとに言えるが、、、。
言霊、、、とは、すべからく言葉の辞書的な意味や、事実の積み重ねが言葉に情報としてぶら下がっていてまるで、人についていると太古の原始人の時代、つまり人間がもっともっとおバカだったころ、からおそらく信じられている(霊魂を信じてしまっている方には、語弊がある言い方だろうが、我慢して欲しい)霊魂のようなもののことをさすのだろうが、、、。
まあ、そういう情報だ。信じれば言霊はあるかのように世界は見えるし、、、。
信じている人には、ありがとうと書いたラベルを張って凍らせた氷の結晶は、言霊のパワーでキレイになったとしか見えないのだろう。
水からの伝言 (世界初水の氷結結晶写真集)/波動教育社

¥2,800
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wikiからの引用を掲載しておく
「水からの伝言」やその続編では、「結晶を作る際に「ありがとう」や「平和」など「よい言葉」をかけると美しい雪花状の結晶ができて、「ばかやろう」や「戦争」など「悪い言葉」をかけると汚い結晶ができる」という内容を「物語」と説明している(いずれ証明されると発言している)。同書によれば「言葉のかけ方」とは、「紙に言葉を書き、水から見えるように文字の書かれた面を内側にして、水をいれた瓶に貼ることである。あるいは「水の入った瓶に向かって声をかけ」てもよい。また「水を入れた瓶に音楽を聴かせると音楽の種類によって結晶形が変わる」といった主旨の記述がなされている。ただし、本書に用いられている写真は記述内容に沿う結晶を選んで撮影したものを掲載したことを江本本人が公言している。
引用終わり。
まあ、高級な冗談とでもいうべきか、芸術なのかは分からないが、、、問題(でもないのだが)は、写真は記述内容に沿う結晶を選んで撮影したものを掲載したことを著者が言っているのである。
勝手に、見る側が騒いでいるのだ。
wikiにはこういう記述もある以下引用
日本化学会や日本物理学会の会員達は「科学的でない」という見解を表明している。また科学者達によって説明内容が疑似科学的(あるいはいわゆる”オカルト”的)だとも評価されている[6]。トンデモ本を批判的に楽しむ団体「と学会」からは、“「戦争」ではなく「war」ならどうなるのか、水に民族性はあるのか”と批判されている[7]。
引用終わり。
え”っ? なんでそうなるんでしょうかね。本人が選んだって言ってるんだしね。でも、当時はみんな、まさかそのタイトルにふさわしい結晶を選んだとかじゃなくって、科学的な実験だとおもってこの写真集を見たんでしょうかね?笑えますが、、、。
ありがとうというタイトル(ラベル)で、絵を描いただけなのだ。そういう、氷を選んで写真集にしたのだ。
もう、この話し自体が古いのでしょうが、、、。
ということで、、、
意味はあなた自身が作り出しているのだ。
人生で起こる全てのイベントについて、直観は大切なのですが、直観ともう一つ推論も大切なのです。
なので、常に一呼吸おいて一つだけ上から自身を見つめることだ。
「究極の!理想の自分自身ならどうするだろうか?」
僕は、そう考えている。
さて、だったら、どのように意味を見出し、判断するだろうか?
一番怖いことは、「常識」にとらわれている時だ。
あなたが「正しい」と感じている時に、その判断材料がただの「常識」だと気がついたら、、、
思い出すことだ。
「常識」って「常識人」の多数決であることを。
「正義」って、支配者の押し付けであることを。
あなたがなりたいものになり、やりたいことをやるのが、あなたの人生だ。
もちろん、真剣に抽象度高く、これをやりたいいや、やるべきだとたどり着いたところなのだろう。たどり着くというか、その方向性がいくらかさらにうすぼんやりとでも明るく見えるというイメージだ。
見えた瞬間は、それまでとの差でくっきりと見える場合もある。(僕はいつもそう!)
しかし、それは明確に見えた訳では決してない。
その中で、「嫌だけれどもやらねばならぬこと」など腐る程あるのは、当たり前であるが。これが、理解出来ないで、「好きな事をしなさい」と言っている、この浅はかな方のwant toに騙されないことだ。
あとは、やり方についても。
例えば、リッツカールトンでコーヒーを飲んだからといってエフィカシーがあがって人生が上手く行くわけなどない。その方法を批判する訳では決してないが、何もならないことをしても意味はないということだ。
まだ、ディズニーランドにいって楽しむ方がよいと僕は思う。もっと学べる。その目があれば。ゴールがあればだが、、、。
本当に、お金持ちに憧れてリッツカールトンでコーヒーを飲みたいとか、まあゆくゆくはヒルズ族(もうこの言葉も死期に近い)とやらにでもなりたいだけなのなら別にいいのだか、、、。
緊張しても、右足と右手を同時に出して歩かなくなるような訓練には大いになると思う。
リアリティーが変われば、世界は変わる。
その一例であるということに、気づけばいいのです。
まさ^ ^/
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