「私はドクター苫米地ワークスの卒業生です。」って

私はドクター苫米地ワークスの卒業生です。(あちゃー!)
という、いかにも苫米地博士のふんどしを借りたアクセス狙いのタイトル(笑)と我ながら思います。
おそらく、他の苫米地ワークス出身者の方も、このブログタイトルを見て笑っていると思います。はい、はい、はい、、、(笑)ってね
千人は超えていると思います。
でも、今日私が言いたいのは、そのことではないのです。
自我、自分についてです。最近の博士の著書にはもうあまり説明されていないですが、私のまわりでも決して少なくない確率で、まだまだ自分を探している方をお見かけするのです。
つまり、自分って何だろう?とか、どうして生まれてきたんだろう?とか、生きるってどんな意味があるのだろうか?とか、そういう類の疑問です。
私のブログがつまんなくて、先に寝てしまう人がいるかもしれないので、結論を先に言うと”答えのない質問”をすると、ぐるぐるぐるぐるずーっと考えて悪いスパイラルに落ちていくから、そういう質問は自分にしないことです。
苫米地博士は、その著書の中で『自我はない』ということを説明してくれます。
それは、例えば私が自分のことを定義しようとすると、生まれた場所、両親の名前、職業、家柄(?)、通ってた学校、所属していた部活、身長体重などを言っていきますよね。
でも、それは、あくまでも自分ではなく、自分と関係する他のモノの説明になってしまっています。そして、詳しく説明しようとすればするほど、例えば所属していた部活は軽音楽部だとすると、軽音楽部ってなんですか?という質問に答えるべく、軽音楽とは、、、と、本人からさらに遠くなっていきます。関係のあるものの事を縁起という言葉で表します。
そして、説明をしようとすればどんどんと宇宙大に自我の説明は広がっていき、その縁起のネットワークはついには宇宙の全てのものと同じだけの大きさとなってしまうというお話しです。
そうすると、自我とは?宇宙全体と等しいということになりますよね。そして、同時に最後まで自我は説明できなかったのですから、自我はないとも言えるのです。
円の中心のようなものです。
円の中心って、ありますよね。真ん中の点!ですよね。ごめんなさいね、あなたをバカにしているわけではないのです。僕も文系ですから、、、数学は得意ではないのですが、円の中心ぐらいはわかります。
でも、点って面積がないのですよね。定義上。だったら、円の中心はどこ?っていう問題をテスト用紙に図示することは出来ないですよね。
点って、、、定義上、存在するんだけど、実際は描くこともできないんですよね。(そういうと、線も幅ないので、正確には線もかけないのですが、それは置いておいて)
そう、自我はこの点に似てるんですね。
先ほどの自我の説明を図示しようとしていくと、色んなモノや情報と自分が縁起として繋がっている線が交差をしている点が自我になるわけですが、幅のない線と、幅のない線同士が交わったところが、自我という交差点だとすれば、それって、やっぱり面積すらないのです。
つまり、自我は実在しないのです。定義上存在するだけなのです。
そして、今度はその自我の説明の時に、お父さんとかお母さんとか家族が一般的には一番重要なのでわりと先に出てくると思いますが、この順番が数学的に言うと、重要度で並べた”評価関数”というものであるのです。つまり、自我とは、評価関数であるという定義も可能なのです。
そして、それは実は自我だけではなく、全ての人やモノも同じです。(試してみて下さい)すなわち、この宇宙にある存在はすべて定義上は存在すると同時に、存在しないということなのです。
んーーーーー。
だから?ちょっと待って下さい。
そして、そのことをお釈迦さんは『この世はすべて空(くう)である。』と表現したのです。空(くう)とは、全てを包摂しているが、同時にその情報量は無に限りなく等しい概念の抽象度で並べたヒエラルキーの頂点に位置する言葉です。(難しい説明でごめんなさい、私の理解がまだまだ足りなくて、もう少し噛み砕いて説明したいのですが、、、)
空である宇宙、空である自我、であるが他者との関係性(縁起)において自分は宇宙の中心で存在できているのです。
故に自らの役割を、宇宙との関わり(縁起)のなかで、活かすことや、自らその意味を見出していくことが大切であるのです。
最先端の認知心理学と一致する哲学です。
そして、これは決して宗教でもスピリチュアリズムでもないのです。
今日私が言いたかったことは、、、自分を探さないこと!自我はありません!生まれてきた意味を何かに求めないこと。生まれてきたのは偶然です。もし、人間一人ひとりに生まれてきた意味があったとすれば、犬にもあるハズです。カブトムシにもあるハズです。ビフィズス菌にもあるはずです。え?ビフィズス菌?は違うでしょと思ったあなたは、ビフィズス菌とカブトムシの生命を差別する差別主義者です。まあ、どこで切ってもなのですが、、、
人間は、重量にして2,000~3,000グラムもある何10兆というオーダーの微生物達と共生しているのです。
特に”神”とか”予言”とか”宇宙人”とかが出てくると、それは”思考停止”をさせるための罠です。
変なスピリチュアリズムや宗教の罠につかまります。
『「あ、あなたの後ろに霊がいる!」といった人がいたら、、、少なくとも数千人のオーダーで見えてなきゃうそだよね。』とは、先日の札幌でのトーク&サイン会の博士の言葉でした。
誤解のないように、霊は実在はしないけど、いると信じている人達の間では情報空間にいるというのが博士の論理です。
それは、サンタクロースやピーターパンと同じです。明日のジョーに触発されて世界チャンピオンになった方もいるようですし、その方の情報空間には明日のジョーは存在していますよね。私もそれは否定しません。
僕は、神様や宇宙人やタロット占いのお告げよりも、常に自由に少なくとも情報空間には、自分の人生を描いていけるような自由意志をとりたいと思います。
人生はお一人様一回限り。あなたの、本当にやりたいことをやろう。あなたがやっていて楽しいことをやろう。

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