(追記)お早うございます。判で押したような、凡庸な(笑)毎日を送っています。
お早うございます。まさです。
側から見ると、判で押したような凡庸な毎日です。まさに凡庸な毎日を送っています。
というかおそらく文字通り、判で押したような凡庸な毎日です。
映画「インターステラ」の様に運動の第二法則はゴール更新の風景のようです。何かを捨て切り離すことで加速が増します。毎日古い考えや古いゴールを捨てています。
ルーティンワークを決めて毎日の情報収集をします。
朝のシャワーで空間と自分をリセットします。気功技術の浄化結界とその他の技術を発火させます。
8時前には出動して、すすきののロッテリアでゴールの更新や読書が主メインです。
自分で持ち歩く本は常時8-12冊程度です。重さは感じませんが。(笑)
読みたい本が手元にないと買ってしまうクセがあります。バラバラと並行して読んでいます。熟読や速読や色々気が向くままです。
その後はジュンク堂(僕のメインの本棚)か、映画館か、テサラクト(カラオケボックス)で気功技術開発、同じ店でランチ(同じメニュー)の特別オーダーです。
まるでふわふわと歩きながら、身体をチェックします。大抵聞こえないボリュームで「糸」とか「メリクリ」とか歌えない(笑)ような歌をハミングをしながら移動します。
家族間では僕は「自由人」と噂されています。(笑)
僕が歩く時の風景は映画のAVATARの風景だったり、ストロボエッジだったり、20歳よもう一度だったり、1Q84のふかえりのシーンだったり、セミナーを受けたりやったりしてるシーンとゴールのシーンが物理現実の前に現れています。
でもかつてピカソは「悲しみのこの時代に、刺激的な熱中より重要なことは何もない」と言ったそうですが、僕の中では輪郭すら見えない遥か遠いゴールへの静かな熱中のマグマがいつも流れているかのようです。
その間にiPhoneでブログをアップしたりしています。僕は英字タイプです。
これもカブトムシが生きてるように無意識的です。
今も。ψ(`∇´)ψ
何か、僕って仕事してないようですね。(笑)
そういう感覚は余りないです。
その後は、スタジオに戻りDVD(映画とかセミナー)や復習(ノートや音声)、ヨガや筋トレ関係(イメージですけど)や瞑想(脳への質問)動画撮影やらですね。
ボツが多いけど動画撮影も毎日やっています。伝わらないな、気が出てないというか自分がまだしっくり来ないなと思ったら消します。
表面的なクオリティはさほど気にしていません。というか無視状態です。
特にこのあいだの記事に上げたような、一般の読者や初めての人が見るものはセオリーではちゃんとクオリティを追求すべきでしょうが、僕は逆です。
そこが本質だと思う人とは僕が続かないからですけど(笑)
18ー19時以降は好きなことしています。好きな場所で好きな人としか会いません。
まあ、大概は会ったら好きになるのですけど。無理しないということです。
大抵同じお店で歌を歌ったりしゃべったり、たまーに気功セッション的なものになったり、極たまにはケンカwしたことも(笑)。
判で押したような凡庸な毎日です。
カオスでいう初期値鋭敏性(「初期値をちょっと変えただけで、まったく違った結果を生み出す」 という性質を持つようになる。)と、論理学の本質、カバラ(古代ヘブライの伝統)の本質とつながりが朧げですが少し見えてきた気がします。
毛嫌いなのか平気でブログで馬鹿じゃないの?と嘯いていた「数秘術ー数の神秘と魅惑(ジョンキング)」も何故か無意識的に購入していました。
師がフィルタリングして抽象度の高いゲシュタルトを入れてくださっていたゲシュタルトの種子が解凍されて来たのだと感じています。
感覚もフィードバックも希薄だった求聞持法も鮮やかに感じることもフィードバックも確かです。
大日如来の真言と印契で阿字観をすると、空海が感じていただろう風景が広がります。