高二の娘が成績表を持ってきました。
正確には親宛に学校が郵送する。そんな権利が学校と親にあるのかと僕が高校生なら主張する。
まあいい。いいとこだけ褒める。成績によらず、好きな科目の好きなページはどんどんやって良いよ。そういうのが身になるよという。僕はそれだけ。
ふと目を見ると大いに不本意らしい。(いい成績なのだが、、、)自分らしくない成績と思っているらしい。
目の前で粉々に破らせた。
「君はこの成績では評価できない。反省は不要。この成績は自分が自分のゴールにまあ目安程度に利用すれば良い。」
学歴は信用にはなる。そう思われている。しかし足しにはなるという程度でしかない。本当は学「歴」そのものには何の意味もない。どこどこ卒業ですって言っても何にもならない。
学「歴」ではなく、「学び」に意味がある。
(ついでに「学問は、答えではなく問いにこそ意味がある、問うことこそ学問の本質である。」と言うのは別の話だが、大いに含みのある言葉だ。僕らはとかく答えを欲しがる。特に僕らの人生において絶対的な答えなど落ちてないのだ。都度自分で答えを創り出すのだ。)
しかし、他者による他人との比較、相対評価によってそれを無意識的にも絶対的に受け入れて、過度に驕(おご)ったり自己満や優越感に陥ったり、逆に自分を卑下したりするようになったらお終いだ。
自分は自分で評価すれば良い。それよりも理想の未来の自分に評価させてゴールを決め、確信して夢中で進むものだ。
自分のゴール達成に対する自己評価を「エフィカシー」と言います。
エフィカシーは『根拠がない自信』とか『大いなる勘違い』と言っても良い。
根拠は不要、根拠があればその根拠はいつか崩れる。人に勝つことなど意味がない。
人類はそれぞれが自分でゴールを決めて、協力して、分業して、繁栄して行くのだ。
エフィカシーはただ単に常に高く設定する。