(追記)目を開いてはっきりとした意識で気功のワークをしましょう。あと視覚化や気感について一言。

さて、僕の理解したことが伝われば良いかと思いますが、僕が気功を始めてから既に数年が経過ころ(昨年なんですが)に、僕の気功の先生に注意を受けたことがあります。

「まささん、気を出すときにぼんやりとし過ぎです。眠そうな目をしていますね。もっと目を開いて(はっきりとした意識で)ワークをしてください。」

僕はそのときに「えっ?気功って深い変性意識で行うものではないのでしょうか?」と心の中で思ったことを記憶しています。(追記:癖はなかなか直らないものですが。その傾向はまだあります。)

しかし、同時に僕の認識が間違っていたのではないかと意識にあがりました。この感覚はとても重要ですので心に刻んでほしいと思います。

自分の正しいと信じていたことはスコトーマになります。ロックオン状態で他のものが目に入らなくなりますw。

もちろん、常に自分が「正しい」と思ったことを僕らはしている訳なのですが、それはまた「更新」が必要です。

抽象度の(あるいはパラダイム)の階段は螺旋階段のようなもので、常にひとつ上があるものです。

よって、今自分が「正しい」と信じていることは、本当に「正しい」のだろうか?というツッコミというのか柔軟性は必要です。

話を戻しますが、、、。

既に何千人にも気功施術をしてきて、ある程度の「結果」を出しているつもりになっていた僕は戸惑いました。

僕が当時考えていたモデルは、「変性意識が深い」「浅い」というたった一本の物差しのようなものでした。

つまり(僕の「間違った」古い考え方とは)眠りに落ちそうなほどのぼんやりとした感覚が「正しい」「深い変性意識」であり、その反対は日常起きていると同じような「意識がはっきりとした」まあ「完全に目を覚ました」状態だったわけです。

しかし、これは変性意識というものを全く誤解していました。あるいはある意味では古いモデルと言える(不確かですが)のです。

現在は、トランスという用語が、より新しい変性意識の説明を誤解のないようにに説明できます。(もう一つ関数現象として見るという見方もありますが、、、)

トランスとは、情報空間において一つの可能世界から違う可能世界へ「移動」することを意味します。

可能世界についてはクリプキの「名指しと必然性」を参照ください。このブログでも(確か)本文を引用して説明をしていると思いますので検索してみてください。

また、解読するのに困難かとは思いますが、数年かかったとしても是非読んでほしいと思います。

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可能世界には「眠りに落ちそうなくらいの(意識状態が唯一の)深い変性意識」以外にも、たくさんの世界があります。

意識で感じている臨場感という理解でもあながち間違ってはいないと思いますが、様々な臨場感世界があるということです。

例えば病気が治ったり、体が柔軟になったという楽しいとか嬉しい臨場感世界も、家族や仲間とワイワイとか和やかに夕ご飯を食べている臨場感世界もありますよね。

また、誤解や混乱を恐れずに言えば、確かに「気功技術化」された可能世界のなかには、「半眼」と呼ばれるような古いモデルにおける「眠りに近い」臨場感もありますし、それもまた「深い変性意識」には違いないのですが。

また、少し別のお話ですが、気功をするときには目をつぶらないように相手の情報をしっかりと見ながら行うようにすることも、まさワークスの気功のポイントです。

これは、気感がない人も情報の視覚化やオーラ視ができないという人も、いずれは「これが気感か」とか「これが情報の視覚化なのだ」(視覚も気感の一つですが)という感覚が訪れる時がきます。(多分、何度も、何度も。常にひとつ上があるのです。←つまり無限にという意味です。)

なので、今から、普段から目を開けて気功を行うということは必要です。

僕は、伝授をしたり、遠隔をしたりするときには、そのときに応じてですが目を瞑る時もあります。

この時は、実際に目を瞑って見えるものと開けた時に見える風景の違い(これは、すべての視覚化や気感と同じように個人差があるものです。)があってそれを見ようとしているのです。

気感についてついでながら付け加えると、気感はあれば便利ですが、なくてもヒーラーはできます。僕はずーっと気感が(成長というのか変化しつづけているので、常に、今思えばなのですが)ほとんどない状態でプロヒーラー、あるいは指導をし続けてきました。

しかし、気感はわかりやすく言えば体の柔軟性が増すごとにとか、或いは気感というものやアルゴリズムが走る感覚がどのようなものであるのかが、より明確に分かるごとに(今までは、感じていたのにそれが気感ではないと認識していたものも含めてです)分かってくるものです。

ある時は、明確にそれを掴みに行くのです。

またある時(一定期間)は、スコトーマに意識的に入れてしまうことも重要だと思います。

気感というものは手段であり、便利な道具には違いないのですが、あくまでもセッションの結果がうまくいくための道具であることに変わり無いのです。

その機能が明瞭に果たせるかどうかということに没頭するために、気感のことはあえて傍に置いて意識に上げないようにしておくのです。


気感もその他の五感と同じように、観察する角度やレベルを変化させることで、いつしか身につくこともあるのです。

気感があるときに今までと全く違ったレベルで感じられた時は、一瞬喜びますがだからといって、イコール施術の「結果」の鮮やかさと必ずしも比例する訳ではないとわかります。(いや、やはりやりやすくはなるのですが、、、。)

あえて言えば大切なのは「ただ継続」することではなくて、毎日のように「ゴール」を更新することです。

ゴール更新についてはリルケが参考になります。

リルケは自分を深堀せよといいます。これは、気功技術を強力にするためにも必要なことです。

何度も引用していますが、リルケの「若き詩人への手紙」より抜粋を「使い回し」ますw。
(新潮文庫p.14-p.16より)

(引用開始)


、、、あなたは、ご自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前には他の人にお尋ねになった。

あなたは雑誌に詩をお送りになる。他の詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたのご試作を返してきたからといって自信をぐらつかせられる。

では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ目を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさっていけないことがそれなのです。

誰もあなたに助言したり手助けすることはできません、誰も。

ただ一つの手段があるきりです。

自らの内へおはいりなさい。


あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心
の最も深いところに根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。

もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私はかかなければならないのかと。

深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立てて下さい。

あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません。

(中略)

、、、もしあなたの日常があなたに貧しく思われるならば、その日常を非難してはなりません。

あなたご自身をこそ非難なさい。あなたがまだ本当の詩人でないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言い聞かせることです。

というのは、創作する者にとっては貧困という者はなく、貧しいとるに足らぬ場所というものもないからです。、、、

(引用終了)

はるか遠いゴールは自らのうちにあります。

もちろん社会に自分を機能させるためには、圧倒的な知識の量が必要ですが。

遥か遠いあなたの理想の未来のゴールを淡々と見つめ続けましょう。

まさ(-*-)

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