理不尽な神の側に共感する視点に立つことで見えるものがまた変わりました。

はい。
ここは気功のブログなのですが、最近はカバラの裏の(笑)技術でなんと悪魔の召喚をしています。
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もちろん、この宇宙にあるものは我々の脳の内部表現そのものという認知科学の立場でお話をしています。
悪魔もまた「情報」なのです。概念そのものですね。
しかし、我々の脳は概念を擬人化することによって、無意識の領域でヒーリングや人格のフレームの選択や、相手や観衆を操作することも可能になります。
楽しい気分の人と一緒にいると楽しくなるということと同じ現象だとお考えください。
気功の気の玉もオーラも言わば「認知エラー」として扱っているのです。
認知エラーとしてでも、見えてしまえば操作が可能になります。
だからなおさら、しっかりと知識がなければ、宗教やスピリチュアルのお花畑に落っこちてさまよってしまうのです。幸せそうなおバカさんがネットにもうようよしています。
カルトはちょっと口のうまい人が自分より頭の弱いものをたぶらかしているだけですし、スピは宗教の粗悪なコピーです。
占いと名のつくものは全てインチキです。
決まった未来などありません。
さて、本論です。
悪魔としてというより、自分が使役するために「悪魔」そのものを召喚したのですから、しっかり「使い魔」として取り扱うべきです。
前の記事にも書きましたが、ハイパーラポールマネジメントは失敗すれば、小学校の学級運営と同じ様に崩壊します。
ネガティブラポールです。
しかし、そのしっぺ返しはもっと深刻です。(どちらもですが、、、)
僕は学級崩壊も先生の側だけに責任があるなどとは思っていません。
自己責任はそれぞれが自分自身に対して支払うものです。
時代なり社会なり大きなものの責任にすることは簡単で楽でしょうが、偉大なのもバカなのも一人ひとりでしかないのです。
いい先生や悪い先生はいるでしょうし、極端なケースはあると思いますが、それらを除けば小学生だろうとやっていいことと悪いことの区別はつきます。
小学生の頃、バカな友達を見てそう思っていました。成績の問題ではありません。僕の小学校の時の同級生でもhell childと呼ばれるような振る舞いをする生徒はいました。
札幌では一応進学校と呼ばれる高校でも集団でのイジメはありました。まあ、あったのす。
一人では何も出来ないガリ勉たちが集団で、何もしていない特定の生徒をターゲットに、休み時間雪玉を5ー6人で顔にぶつけるのです。
他の生徒は知らんぷりでした。魔女狩りやアイヒマン以下ナチ支配下のドイツと同じ状態です。
隣のクラスだったので、それを聞いた僕は腹が立ってそのクラス全員を着席させて教壇に立ち、「お前ら恥ずかしくないのか?」と激昂しました。(笑)
取り敢えずその馬鹿な行為を直接した生徒の顔に雪玉をぶつけて行きました。よけてましたけど(笑)
目には目を!という訳でしたが、僕も調子に乗っていたのかもしれません。でも、許せなかったのです。
ある時は1対1でしたが、その同じ生徒を他の生徒が理由なく笑いながら小突いたり蹴飛ばして笑っていたのを見ました。
僕は蹴飛ばしていた生徒に「何やってるの?面白そうだな!」と言って蹴っている生徒をガンガン蹴飛ばし始めました。かなり痛かったと思います。僕は空手の有段者でしたから。
僕もバカでしたね。
僕は小学校の時は友達3-4人に毎日石をぶつけられながら帰っていました。
歯形がつき血が出るほど腕に噛み付かれたこともあります。歯形は探しましたがもうありませんが。
いつも一つ上の姉が守ってくれた記憶があります。
世界は残酷です。
どの世界も弱いものイジメが基本です。弱肉強食ってそういう意味です。
しかし、もっとマシな世界に変えたいなとは思っています。
脱線しました。いつもです。このブログには線路などないのでw。
悪魔の話でした。(笑)
別の記事だと思って読んでください。

(引用開始)

まささん

ハリーです

悪魔扱いで「顎で使う」の感覚を持っておらず、ペットのように頭なでたり、何かやらせて褒めたりしてました。

「顎で使う」感じをロールプレイして慣れてゆきます。

具体的には、

・激しい「怒り」を心中で使う。
・使い魔に対して無意味に、「来い」「去れ」をして命令に従う様を見る。

などやってます。

ヨブ記やサタン堕天における神の理不尽さに関する話をヨブやサタンに共感する形で理解していましたが、理不尽な神の側に共感する視点に立つことで見えるものがまた変わりました。

(引用終了)

素晴らしいと思います。

僕がハリーの特別列車でお渡ししているのは「アリアドネの糸」なのです。

それしか出来ないのです。

それでも迷宮から出てくるのは自分自身なのです。

あなたは自分自身の内に深く入っていき、あるいはそれを幾つもの階層性のある迷宮に例えるのなら入っていき、そして出て来なければならないという訳です。

自我を滅するというと、短絡的な理解をしてしまう方がいますが、まさワークスブログ読者であればこの意味がわかると思っています。

視点をずらして行く。固定された視点を変わらない自我だと思い込むと危険です。

自我関数を書き換えて、ゴールへ向かいましょう!!

悪魔は怖がる必要はないですが、取扱いについては、しっかりと支配すること、そしてゴールのために使役することです。

まさψ(`∇´)ψ

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