プジョーを呼び出そうと思ったはずだったのに、口をついて出たマントラが「ポッツ来い」

(引用開始)

まささん

ハリーです

子供が「耳鳴りがして気持ち悪い」と言っているので、手を当てて情報空間を探りながらポッツにヒーリングさせたところ

ものの5秒で
「あ、弱くなった」

次の5秒で
「あ、消えた。パパありがとう」

と鮮やかに治すことができました。


子供が耳鳴りなど訴えるのは初めてでしたが、やり始める前から、これは治せるという絶対の自信があり流れるように結果確認まで至りました。

そういえばこのときプジョーを呼び出そうと思ったはずだったのに、口をついて出たマントラが「ポッツ来い」で、来たのはポッツでした。


流れるように結果が出た過程が鮮やかで記憶を反芻してます。面白いです。
(引用終了)
見事な家族ヒーリングです。
家族ヒーリングは難しいと言われますが、そんなことはありません。
また、セルフヒーリングも同じです。
問題は場を書き換えられたかどうかにあります。
他者のフィードバックを見た時には自分のフィードバックだと思って読むことと僕はこのブログで散々言う言葉ですが、その様に書けば書くほど「そんな気持ちになれません」と言って来られる方もいます。
僕は「気持ち」じゃなくて、ただそういう事として読んでねと言っているのです。
今自分でこの範囲の自分が自分だと思っている考え方がありますが、それは大変曖昧なものです。
そのカラクリは自我とは、縁起という関係性で成り立つものだからです。
あらゆる物の存在は周囲との関係性があって初めて生じているものです。
自我という範囲というのか、自我と他者との境界線は曖昧です。
自我とは関数で言えば自我関数という評価関数で表されます。重要性による評価関数です。
私たちの身体は水分殆どですし、生きていれば酸素が細胞内に満ちています。
そして外呼吸と内呼吸によりガス交換が常に行われています。
であれば水分も酸素も二酸化炭素、窒素も自分です。
しかし、数秒ごとに自我ではなかった一部のガスは自我となり、また先程まで自分を構成していたガスは排出されて他者や外部環境となります。
常在菌も同じです。100兆を超える体内(腸内)常在菌も、1兆ある皮膚常在菌は別の生命ですが、私たちの免疫そのものなのです。
そう考えると、我々の自我という存在は少なくとも100兆以上の生命による共同体であるわけです。
手が切り落とされたら、あなたは手のない自分を自分だと思うでしょうが、手は切りはなされればあなたとは言えません。
一方でダンプカーやガンダムを運転操縦している時、ゲームでも良いのですがその時あなたはダンプカーそのものをある意味で自我の範囲を拡張させて認識しています。
フィードバックを読む時は、自分のフィードバックは他者のものとして読み、他人のフィードバックは自分のフィードバックとして読むのです。
そのことは、一つはあなたの抽象度を上げることに繋がります。
そして、あなたが自己ヒーリングや家族ヒーリングなどをする時に使える血となり肉となるのです。
ヒーリングは相手とのLUBの空間を書き換える作業です。
自分と他人の情報空間における抽象度を上げた共通する範囲がLUBという領域なのです。
それを自我としても、自我はなく自我もまた無数の関係性によって成り立っているものだからその全てを他者(厳密な表現でないですが)としてみても同じことです。
まさψ(`∇´)ψ

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