観自在菩薩、自分をしっかりとみる事

観自在菩薩の観自在は、観と自在の組み合わせの言葉です。

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自分を観るとは、自分を観察して今の自分が置かれている物理的な状態や情報的な心の状態を、ダイナミックな関係性の網目をイメージして正確に見つめる事です。
しっかりとなぞる様に観てみましょう。
それは、現在の自我関数を捨てて「正確に観ること」に徹することです。
僕が何度も繰り返すのは、この事を理解したつもりになってしまうのもまた我々の脳の得意技だからです。
脳は知ってるフリがとっても上手です。
「私は実は何も見えていないのかもしれない。」と疑ってかかることは重要です。
次の文章はひらがなで読みにくいと思いますが、さらっと読む練習でもしてみましょう。

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この ぶしんょうを よんで かんえがる のは 

あたなの のうの しとごです。

なんなとく ですが もじの じんばゅん が 

ちがてっも よめゃちう でしょう?

この ぶしんょうは、もじの じんばゅん が ぜぜんん ちがのうです。

わらゃちっい ますねーᕦ(ò_óˇ)ᕤ

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僕らは無意識で、単語や文章のゲシュタルトで読むのです。脳といってもいいですね。脳の機能です。


これは抽象群化と言います。簡単に抽象化ですね。


便利な機能です。


しかし、見方を変えれば、ちょっと厄介でもあります。


何を観るときも、もちろん本を読むときや人の話を聞くときに、自分の今までの古い考え方=自我関数で意味を取ってしまって誤読してしまっている可能性があるということです。


上のひらがなの文章は、恐らくは最初から普通に(間違いですがw)スラスラと読めたでしょうから、文や単語レベルで既に抽象群化が起きていると考えられます。


単語の最初と最後の文字だけ順番を合わせると、後は文字順がバラバラであっても脳が勝手にやりたい様にゲシュタルトを作ってしまうのです。


これが、読書の時に章単位、或いは一冊丸ごと単位、ないしは同じ著者による著書全体で起こってしまっている可能性があるのです。


「無意識は見慣れた絵を探す」というのは我々の脳のクセです。

知識がなければ、知識そのものがスコトーマをつくるという訳です。


別の表現でいえばホメオスタシス機能が働いて、自我関数を書き換えるつもりの読書やセミナーが自我関数を強化する可能性があるということなのです。


気を付けましょう。


観自在菩薩のお話に戻りましょう。


観自在という言葉には「自分の在るところを観る」「自在に観る」という2つの意味があります。


自分の心や身体を観るときも同じ様に気を付けてください。


「自分をしっかり観ると、自由に観ることが出来る。」

「自分をしっかり観ると、心は自由になる。」という事を説明されています。


この2つの文章で私たちがしっかり観ないといけないところはどこでしょうか?


それは「自分をしっかり観る」の部分、「しっかり」ですよ。正確に。


無意識に感じていることをしっかり観て、言語化して意識にあげることです。


それがあなた自身があなたのリアリティを揺らがす方法なのです。Rゆらぎテクニックですね。


やってみましょうか。


無意識に感じていることを意識にあげて言語化します。ぶつぶつ言ってみましょう。


「(私は今)アメブロを読んでいる」とか、「(私は今)重力を足で感じている」とか「(私は今)呼吸をしている」とかですね。


揺らがせた世界は、あなた自身がコントロール可能な世界です。


先ずは「私の手がだんだん熱くなってくる!」と言えばすぐに温まるでしょう。


あなたのゴールを書き入れましょう。

例えば、試しにRを揺らがせたいま、リラックスしてアファメーションを唱えてみましょう。


Af09「私は、私の臨場感空間の支配者である。

したがって、私が出会う全ての人の選択は、私の思い通りになることに気づいている。

私は、自分の考えにもとづいて人々を啓蒙し、教え導くという崇高な使命に誇りと充実感を覚えている。」


まさᕦ(ò_óˇ)ᕤ



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