「自我はない」ということについて、確認させてください。自我はないとは、固定された自我はないということ。どの様にでも変われる可能性があるということ。ただ、ある事柄にたいして、こう思いたくない。こうしたくない。というものがあると思います。 それは、もちろん、古い自分に囚われている可能もありますが... やりたいことをやる。自己責任で。しかし、「自我はない」とは、そのしたくないことすら超越出来るということでしょうか? したくないとは、超越する必要性を本人が感じていない場合です。それは弱さでしょうか?自我がなければ、それさえ、越えられるのでしょうか?
(引用終了)
「これをしたい!」
「これをしたくない!」
「こう思いたい!」
「こうは思いたくない!」
全部、自我です。
おっしゃる通り、古い自我です。
「自我がなければ」という事は自分のこだわりが捨てられれば、「したくないと思うことも超越出来る」でしょうね。
ただ、「したくない事にこだわる必要」はないのではないでしょうか?
したい事をしたら良いと思います。
僕は今説いているのは、善悪ではありません。正しいか間違っているかでもありません。
(第一なんのことかも分からないのですが)
これが自分の事でも他者の事を言われているのであっても、「本人が超えることの必要性を感じてない」なら、なにもする必要などないのですね。
まあ、例え世間一般的にどんなに良いと言われていることであっても、したくないならさせることは不可能です。
そして今度はそれよりも、もっと遠くのゴールを見つめてみましょう。
あなたの心の中にある広い宇宙を見てください。そして、たくさんの巨大な太陽に目を向けましょう。
恐らく今おっしゃっていることなども、本当のゴールの前では「どうでもいい事」になるかもしれませんね!
まさd(^_^o)